2003年12月の投稿

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2003年12月31日

出逢い そして感謝

この2003年は、ほんと「出逢い」と「感謝」の年でした。
いろんなことが語り尽くせないほどたくさんありましたが、
今は「ほんとうに、ありがとう」と素直に言えます。

「出逢い」
この言葉は日本IBMの尾花紀子さんからこのサイトオープンに際してプレゼントして戴いた言葉です。
お互いが歩み寄り出合う「出逢い」、この言葉に私自身の1年が集約されています。
皆さまのおかげで、ほんと素敵な「出逢い」をさせていただきました。
少しの勇気からこんなにいっぱいの「出逢い」が生まれ、そして本当の生きがい、やりがいを感じ始めています。そしてここから楽しいこと、素敵なことがたくさん生まれる予感がします。
ワクワクのドキドキの2003年でした。

「感謝」
この言葉はカンドウコーポレーションの福原勘二さんから身をもって教えて戴いた言葉です。
「ありがとう」の言葉には言い尽くせないほどの気持ちが込められています。
その言葉を具体的にそして素直に表すことを教わりました。
2003年ほど、この気持ちを持ちつづけている限り、人としての生きていけるんだなーと実感した年はありません。
必ず「感謝」の気持ちをも持ちつづけて仕事することを、これからの掟とさせていただきます。
ここからすべてが始まり、そしてまたここに帰ってくることわかりましたよ。
いつでも、どこでも「ありがとう」の2003年でした。


今の気持ち表すとしたらユーミンの
「やさしさに包まれたなら」です。

「小さい頃は神さまがいて、不思議に夢をかなえてくれた
やさしい気持ちで目覚めた朝は、おとなになっても奇跡はおこるよ 」  by yuming

42歳で不覚にもこんな気持ちになるなんて(笑)
ほんと皆さんに感謝しています。

そして、2004年もここからスタートです。
「出逢い」と「感謝」を持って、そして皆さんに少しでもお返しができればと・・・

もっと、もっと素敵な「出逢い」をして、
もっと、もっと皆さんに「感謝」したいです。

「あっ、2004年も天から涙でるほどの素敵な出逢いが降ってきましたよ!ほら!!」


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2003年12月30日

親友

私には誇るべき友人がたくさんいます。
そして、中でも今年は友人Kさんには語り尽くせないほど助けられました。
今の加田の家族がこうしていられるのもこの友人のおかげと言っても過言ではありません。
年も押し詰まりあとわずかですが、この場を借りてぜひKさんに「ありがとう」の気持ちを伝えたいと思い、ほとんど私信になりますが、職人魂を書かせていただきます。

今年はほんと、いろんなことが怒涛のようにありました。

中でも父親の病気は今までの生活を一変させるものがありました。
そしてその病状が変わるごとに家族はその治療方法に決断をしなくてはなりませんでした。

幸いなことにその都度、父親の病状について相談にのってくれる友人が私にはいます。
そう、Kさんは医療関係の仕事のスペシャリストです。
そして岐路に立つたびに私はKさんに相談をします。
Kさんとの会話から私は「命」というものの意味を改めて考えさせられました。
医療技術は進み多岐にわたり治療方法や薬が開発されています。父親の場合、大きく分けて二つの治療があります。病気そのものの治療と、延命治療です。突然倒れた父親にはその治療に対してどうするかなどと考えることもできません。そして家族で判断をしなくてはいけなくなりました。リスクの高い治療を受けるべきか、どうか。

Kさんは私に的確なアドバイスをしてくれました。これからおそらく現れるであろう症状とその対処、もし自分の父親だったらこうするかもしれないという意見、家族のこと、会社のこと、もしものことがあった時のの心構え、同じ病気を持つ方の事例、そしてなにより本当の「命」の意味を教えてもらった気がします。

Kさんからの手紙
「いろいろ大変な時期になりましたね。
心痛むこともこれから多々出てくることと思います。
気持ちをしっかり持って、自分ですべきことをこなしていってくださいね。
予測できること、あらかじめお話しておくことが必ずしも良いとは限らない場合もあるとは思いますが、そうじゃなければそれでよし。
結果オーライということなったほうが気持ちが楽でないかと考えます。」

この言葉に何度も助けられました。

Kさんはほとんど毎日、その「命」のはざまで仕事をしています。現場にいてもその「命」の終え方について今でもいろいろ考えるそうです。ほんとに患者さんが望む「命」の終え方とはなんだろうと、、、

私自身も、どこまでが本人のための「命」で、どこまでが家族のための「命」なんだろうと今でも自問自答しています。
「命」はもちろん何物にも代えがたい大切なものです。そして「命」は本人の物でもあり、また、すべての物でもあるんじゃないのかなとも思えています。

答えは決して見つからないと思います。
でも家族の中の父親は確実に変わりました。
そして、こうして考えることできたのも、以前の職人魂で父親のことをここに書けたのもKさんのおかげです。

Kさんほんとありがとうございます。こうして家族で冷静に父親の病気に向き合うことできました。そして皆で今は父親のこと思えます。
これからも友人としてそして同志としてよろしくお願いします。

私もKさんに誇ってもらえるように仕事がんばりますね。
このことこそ父親の一番の望みだと今は思う私です。

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2003年12月24日

父親 その5 そして今

昨年の10月に突如、父親が病気で倒れます。

その時から全身全霊をかけた病気との戦いが始まります。
病院の医師からは余命1ヶ月と診断され、
家族共々今まで思いもしなかった現実に直面します。
そして数パーセントの確率でも効果があるといわれる治療を受けに県外まで出向きます。
家族は絶対あきらめないことを誓います。
そして奇跡が起こります。
医師からも宣告された父親がその数パーセントの確率の治療により、命を取り留めます。
もちろんその病気がなくなるわけではありません。一時的にでも進行が抑えられたのです。

ここから自分の気持ちが変わります。
そう、今までずっとお金に振り回されてきた二人の関係がこの時を機に変わります。
お金とか仕事とか名誉とかすべてのものが吹っ飛びました。
ともかく父親に生きていてほしい。
そしてもの言わぬ父親から学びます。
日頃の何気ない生活の大切さ。切に生きるということを。

「父さん、昨年10月に突然倒れてからもう1年が過ぎました。
その間にぼくは父さんの頑張る姿から沢山のことを学びました。
まず真剣に自分の人生に向き合えました。
そこからほんとに大好きなこと見つけられました。
おずおずしてた自分からちょっぴり勇気を出して
決断しチャレンジできるようになりました。
その前向きな気持ちから素敵な出逢いがたくさんありましたよ。
そしてそのすべてに感謝できるようになりました。
どんなにささやかなことにでもいいんです。
その感謝の気持ちさえあれば必ず生きていけます。
自分たちは生かされて、生きていることを。
一日一日を感謝しながら
大切に生きていくこと教わりました。
まだまだこれからも大変だけど一緒にがんばろうね。
父さん、ありがとうございます。」

今日はクリスマスイブの日です。
父親は病院で迎えるクリスマスです。
皆さんもそれぞれのクリスマスを迎えてますよね。

私にとって今年のクリスマスは特別なクリスマスとなりました。
そう、今年ほど素敵な出逢いがたくさんあり、
生きていること自体に感謝した年は今までありません。
ほんとに心の底から感謝します。

父さんにそしてすべての方に「ありがとう」と「メリークリスマス」


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2003年12月22日

父親 その4

私は父親を裏切る行為にでます。

当店の支払いは約束手形に頼っていました。そしてその期日になると父親は金策にはしります。不渡りでれば即、倒産です。
毎月期日になるとほんと生きた心地しませんでした。
ここで私は父親に手形をなくすよう、その方法を提案するのですが、聞く耳持ちません。
それどころか父親にとって会社経営には手形と借金は絶対になくてはならないものでした。手形をなくせば会社は倒産するとまで言ってました。
私は内緒で手形をなくすこと決心します。

3年前の決算が終わったと同時に取引銀行とは別の銀行に会社の口座を作ります。
そしてお店以外の宝石展示会を前年の倍以上予定します。
その展示会の売り上げはすべて父親に内緒でその口座に入れます。
父親は展示会あるのは知っているので、売り上げがどうだったかは聞きますが、私はその度「売れなかった。自分でもどうしていいかわからない。」と答えます。

そして本当の展示会の目標にむかってスタッフとともに頑張りました。
もちろん売り上げできない展示会もあったのですが、なんとかお客様のおかげで売り上げを上げることができました。
また景気もかなり悪かったのでこの機会を逃すと絶対今の会社の存続はありえないと考えていました。
スタッフ一同で危機感をもって、展示会開催しました。そしてすべての仕入れを父親に内緒で現金決済をします。
もちろん以前切った約束手形を落とすためにお店の売り上げも落とせません。
今、考えても奇跡的な1年でした。そしてほんと必死の1年でもありました。
そして今まで以上にお客様に感謝をする1年間ともなりました。

父親といえばその月の決済するお金と従業員の給料だけあればもう何も言いません。それほど経営に対しては無頓着でした。

そして手形がなくなります。
もちろん手形はなくなっただけで借金は減りませんが、期日の恐怖だけなくなっただけでなく、当店の経営状態はがらりと違ってきました。

翌年の決算でこのことすべて父親にわかります。
それ以来父親との会話がなくなります。父親にしてみれば息子にうそをつかれ裏切られたというショックが大きかったと思います。私も胃の痛い日々を過ごします。
経営状態は少しずつ良くなっていくのですが、それと反比例に父親との仲も悪くなっていきます。
これは会社経営の根本的な考え方の違いでした。
これは今でも埋まることはありません。
今でも手形が悪かったとは父親は思っていません。

そしてある日父親が倒れます。


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2003年12月17日

父親 その3

プライベートな話が続き、すみません。

でも、宝石工房KADAを語るには父親のことはどうしてもお話しておかなければいけないと思うんです。もうしばらく勘弁してください。

そう、私が出雲に帰ってきたのも自分の意思ではありません。
15年前の当時、ほんとお店はお金に困っていました。
メーカーさん支払いが6ヶ月も滞っていまして、ひどいのになると1年前の支払いが棚上げとなっていました。そして以前切った約束手形を落とす為、父親は金策に走ってました。
当時まだバブルの絶頂で、今のように不景気ということじゃなく、根本的な経営の問題でした。元々お金があっての起業ではなかったので銀行からの借入金を基本にして、金利だけを支払っている自転車操業です。
そして以前からの従業員さんがたくさんいました。でも一部をのぞいて、その方たちのお給料に見合う働きをさせていませんでした。そして人のいい父は今で言うリストラなんて絶対できません。

そう、自分のいやなことは必ず妻である私の母親にさせてました。
決して望んだ仕事ではありませんから、仕事の困難に対して、真正面から向き合うことなかったんじゃないかなと思います。
ただ、子ども達のためにとお金の工面だけを必死でします。
銀行に借り入れができなくなると、こんどは個人的に借金をあちこちからし始めます。このことが父との対立をより深める根本になります。「なんでここまで!」

でも、今となっては、
ほんとは自分達のために地にはいつくばってもお金をなんとかしていたことに、
そしてお金を貸せて戴いた方に私は一生感謝します。
そしてこの仕事を使命として続けます。必ず恩返しいたします。

当時当店の年間の売上げが1億8千万ぐらいで銀行の借入金が2億以上、隠れ借入金もあり、加えて当時の高金利ですから、もう債務超過です。
いまだからお話できます。もうお手上げのはずですが、・・この辺のお話は法にも触れそうなので・・・詳しいお話は私に個人的にお聞きください。
ともかく父親はあらゆる手段を使って、必死にお店を支えてました。そう、子どもたちのために!
この時の決算書、私の宝物です。そして、この決算書見るとどんなに経営状態が悪くなっても乗り越えていけるという自信の源にもなります。当店のお守りみたいなものですかね(笑)

そんな状態で、当店が入っているショッピングセンターのリニューアルが行われます。支払いが滞っているメーカーさんは回収もしなくちゃいけないので、簡単に当店を見捨てる訳にはいきません。
そこでメーカーさんから私への申し入れです。「リニューアルを機に出雲に帰ってこなければもう商品などの応援ができない。そして仕入れ代支払ってください。」ほんと存続の危機でした。そして出雲に帰ります。

この時のメーカーの河野忠男社長にはほんと言い尽くせないほどお世話になりました。そして今の当店があるのもこの方のおかげです。私の仕事の全てがこの方のご縁から始まりました。「河野社長ほんとありがとうございます。」

しかし、本当に会社の経営のこうしてわかるようになったのは1年前の父親が倒れてからです。
それまでの14年間は一緒に働いていたのですが、お金の管理はすべて父親でした。絶対に通帳には触らせませんでした。どういう経営状態なのかわかりません。とにかく「売上げを作れ!」だけでした。
しかし父親本人も、会社経営をもうどうしていいかわからなくなっていたんです。
その場しのぎの連続です。確かに以前はなんとか売上げだけ上げればよかったんですが、その売上げ自体がどんなことしても上がらない時代が訪れます。

ここで父親を裏切る行為に私はでます。


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2003年12月15日

父親 その2

現在、父親は病院で病気と闘っています。
今はもうお店に立てなくなった父のことを少しお話ししたいと思います。

私の父親は昭和8年生まれの70歳です。
小さい頃、跡継ぎがいないこの加田時計店を継ぐために叔母の家から養子に迎えられました。まだ小学校に上がる前で、本当の母親が恋しくて何度も家に黙って、母に会いにいったそうですが、その度に「ここはおまえの帰る家じゃない」と追い返されたそうです。
養母はとても優しい人で大切に育ててもらっていたのですが、父が養子に入ってまもなく他界します。そして、次の母には子どもができますが、亡くなった前の母の遺言により父は当店の跡取りとして残ります。

高校生になり、文学、特に哲学が好きで将来は学校の先生になりたくかったそうです。内緒で東京教育大(今の筑波大)を受験するのですが、これを義父に見つかり「商売人には学問はいらん」と一蹴され、あえなく夢を閉ざされてしいました。

高校を出ると時計職人としての辛い修行が始まるのですが、この時ことについてはあまり話しをしませんでした。ただこの頃、精工舎(今のSEIKO)の時計の修理の研修で東京に少しだけ住んでいた時期があり、上野のガード下で飲んだことや、よく泉岳寺にお参りした話(父は赤穂浪士ファンです。)をなつかしそうに話してくれたこと覚えています。

そして結婚し私を頭に3人の男の子が生まれます。
子どもの頃の思いでは最初で最後、1度だけ家族で鳥取砂丘に日帰りで旅行したことがあります。この旅行がとっても楽しかったこと今でも覚えています。後はまったくと言っていいほど父と一緒に出かけたとか、遊んだ記憶ありません。
でも近くの本屋はよく連れてってくれました。江戸川乱歩の怪人二十面相シリーズや歴史小説が大好きでよく買ってもらいました。本だけはとにかく買ってくれました。そして父も本屋さんに行くこと唯一の楽しみだったと思います。

こんな父でしたが私たちを思う気持ちはほんとすごかったと思います。これはやはり父の生い立ちから来るもので、寂しい子ども時代の体験から、自分の子どもだけにはそういう寂しい体験を絶対させたくないという思いがあったようです。また私にむかって、お店を継いでほしいと言ったことも今まで只の1度もありません。そして、父の生活はすべてにおいて子どもが一番でした。それ以外に趣味とかもなく、もちろん自分のことでお金を使ったこともありません。

私自身も42歳になるまで、そして父が病気で倒れるまでは、ずっと父に守られて育ってきました。お金の心配などしたことがありません。私の名古屋での学生時代の頃バイトはしてはいけない。学生運動してはいけないと口をすっぱく言ってたこと、必ずお金の心配して、大丈夫かと聞いてくれたこと思い出します。

そう、私たち兄弟にお金のこと一切心配させませんでした。私もうちには充分お金があると信じていました。でも実は当時、内情は火の車だったこと後から知ることとなるのですが・・・当時ほんとに筋金入りのぼっちゃんです。

そしてこの火の車のお店の借金のことで、その後父と私は対立することとなります。
ほんと今となってはなんでもっとこの時にお互いに話し合い、父を理解する努力しなかったのかなと思います。


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2003年12月13日

宝石の価値 その2

前回お話した「お母さんから受け継がれたルビーの指環」の続きです。

最高に素敵な、そして何物にも代えがたい赤い石の指環に感動した当店スタッフは早速リフォームに取り掛かります。
まず、その方のお母さんのこともっと知りたくなりました。そして、お持ちになったお客様のことも・・・・そうここは、私よりも人生経験が豊富で、しかもあっという間に人と親しくなることを特技とする。宝石職人渡部正の出番です。素敵なお話聞かせていただきました。

宝石のこと以外のいろんなことお話したと思います。お客様の子どものころの思い出、お父さんが早く亡くなり、お母さんが一生懸命働いて自分達を大きくしてくれたこと。その頃の生活大変だったけど、今の時代に比べ、贅沢はできなくても、とってもささやかだけど、夢があったこと。すごく本が好きで、本を買ってもらうのがその頃の一番の楽しみだったこと。ともかく取り留めなくいろんなお話、聞かせていただいたこと覚えてます。

そして結婚するとき母から唯一自分に持たせてもらったもので、しかも、亡きお父さんが最初で最後の二人の旅行の記念に、お母さんに買ってくれたものだと。

当店のスタッフ全員でそのお客様にあったジュエリーはどんな形だろうと考えました。
そして、お客様のご要望をお聞きします。
大きな赤い石は指環としては大きい石です。ましてや、お客様は今まで宝石なんて着けたことが無く、そのまま指環に作り変えてもなかなか身に着ける機会がないとのこと。普段はあまり身に着けること無いので、できれば町内会の旅行とか、ちょっとしたお出掛け、会合などに着けていきたい。少しお金かけても胸をはってできるもの。自分の娘にも受け継いで欲しいと思うので、お嬢さんにも気に入ってもらえるもの。

これらのご要望を踏まえ、当店がご提案をしたリフォームはブローチとしてもペンダントとしても使えるジュエリーでした。
さりげなく使えるペンダントはすぐ思いついたのですが、それだけではすこし軽い感じなので、この石の想いをもっと伝えたいため、そして結婚式とかでも使えるようにブローチとしても使えるように工夫しました。ブローチに加工すると少しあらたまったフォーマルなイメージになります。
もちろん元々の枠使ったお安いリフォームもあるのですが、ここは予算もあるので全てを新しくデザインしなおしました。

ここは私の出番です。お嬢さんでも出来るよう、シンプルな作りにした上で、お客様だけのオリジナルデザインをしました。そして、素材はあえて18金を使いました。当時でもプラチナが素材的には主流でしたが、この赤い石を最大限綺麗に見せることできるのは、18金で、それも少し銀の割合の多い黄身を帯びた金。そう、ヨーロッパのアンティークジュエリーによく使われる金色を使いました。これはやはりこの石の想いを最大限に生かそうとそして綺麗に見せようと思ったこだわりの結果だと思います。絶対、赤色には金色、それも黄身を帯びたイエローゴールドお勧めです。

こうして、当店自慢の赤い石のペンダント&ブローチ出来上がります。
もちろんお客様には喜んでいただけましたが、
そのお嬢さんに「お母さん、これなら私もらってもいい!」と言っていただいた時、
「職人魂」が泣きました。

「自分達はこの仕事に出逢う為に今まで仕事してきたんだよね。」
「これって、ほんとの意味での宝石の仕事だよね。」って
当店スタッフはお客様に知り合えて本当に幸せでした。

そして「職人魂」は感謝します。
Sさんありがとうございます。
だって宝石工房KADAに「ほんとの宝石の価値」気づかせていただけたのは、
あの「赤い指環」ですよ!


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2003年12月11日

宝石の価値 その1

今まで、いくつものジュエリー・リフォームさせていただきました。そしてそのどれもが宝石工房KADAの誇るべき仕事です。

そのやり始めの頃、自分のジュエリーリフォームの考え方を決定的に変えたお客様との出逢いがありました。この仕事のおかげで私はここまでリフォームにこだわることができたと言っても過言ではありません。

ちょうど10年前になります。ひとりのお客様が当店にリフォームの依頼に訪れます。
その方が当店にお持ち込みになったジュエリーはおそらく戦後まもない頃作られた指環でした。その指環は9金(現在、ジュエリーは18金で作られています。その頃は金自体非常に高価で純度を落として使われていました。)で赤色の石が留められていました。

お客様は「これは母が遺してくれた大切なルビーです。いつかは作り替えてやりたいと思ってました。こんなに大きいルビーなので、なかなか似合う年代にならないと身に着けれないと思っていたので、今まで大切にとっておきました。子どもも独立してやっと家計も楽になったので、自分にご褒美でこの機会に作り替えたいと思ってKADAさんに来たんです。宝石屋さんで見るとルビーとっても高価なので、こんなに大きいルビーだと、いったいいくら位なんでしょう?」とおっしゃいます。

私はその指環を見せていただき「はっ」とします。そう、そのルビーは人工ルビーなのです。戦後まもないころ、ある時期ブームのようにして日本中に大量に出回ったものでした。
今で言うイミテーションジュエリー、いわゆるまがい物です。
お客様の嬉しそうな顔を見ていると、返事に躊躇する私ですが、やはり真実を伝えなければ、一生お客様はこれを本物だと思い込んでいかなくてはなりませんし、当店としてもお預かりする以上は真実を伝えなくてはなりません。
そして、そのことをお客様に伝えます。

お客様は「えっ」という感じで少し困ったような表情で、ちょっと考えてから、
笑顔で「やっぱりお願いします。私も実はこんなに大きなルビーが家にあること自体おかしいと思ってました。でもいままで宝石になんて縁がなかったので、それすらわかんなかったんです。ほんとこんなもの持ってきてすみません。でもこれ私がお嫁に行く時、唯一私に持たしてくれたものなんです。当時は生活が大変で、そんな時に母から受け継いだ私にとっては何物にも代えがたい大切な宝物なんです。ぜひお願いします。」と。

もう私、大感動です。そして自分自身の宝石の価値観がこの方のひと言で変わりました。
そう、このお客様との出逢いによって、宝石の価値は持つ方の考えで変わるということ教えられました。
そしてこのひと言で当店の「職人魂」が震え、燃え上がります。
本日は出逢いまでです。
次回、宝石工房KADAの「職人魂」がそのお客様に対してどんな仕事したかを書きます。
ぜひ読んでやってください。


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2003年12月08日

神さまに感謝します。 がんばれTくん

今だからお話しできますが・・・
ちょうど1カ月前の今日、そう11月8日(土)は私にとって一生忘れられない日です。
この日は年間最大の数字目標の3日間の展示会のちょうど2日目を終え、帰宅したところ夜中に突然の電話がなります。
私のとっても大切な友人Tくんが車の事故に巻き込まれ意識不明の重体で病院にかつぎこまれたというのです。
病院へかけつけると包帯でぐるぐる巻きになったTくんがいました。

ともかく命助けてほしい。
こんなことは絶対許されることじゃない。
絶対に助かる。これは願いじゃなく、そうなんなきゃいけないことだ。
Tくん無茶苦茶いいやつだから皆が守ってくれる。絶対に助かると念じました。

そしてここで書けるということは、そう、Tくん助かりました。しかも奇跡的な回復で一昨日転院をしました。命にかかわることがなくなったので、別の病院でこんどはリハビリ治療です。

ほんと神さまに感謝します。どうにもならないことがある世の中で、こうして命を取り留めたTくんのこと、すべてに感謝したいです。「ありがとうございます。」

正直言って、当日は展示会とかお店のこととか吹っ飛びました。ここで命落とすようなことあったら・・・展示会とかこのサイトとかすべてを中止しようと思ってました。

いつも当たり前と思っていることが実は当たり前でなく、いろんな力に守られているんだなーと痛感します。
確かに自分達の明日はわかりませんが、今、いつもどおりの今日がむかえられたことに感謝しなければいけないことだけはわかります。
こうして命の大切さを思い知らされることに感謝しなければ。
生きてることほんとありがたいです。

Tくんこれから厳しいリハビリの治療はじまるけどがんばろうね。
あの大変な事故乗り越えられたんだから、ぜったい社会復帰できると信じています。
そして自分もTくんに負けないようにがんばりますよ。
そしてこの仕事してたことを誇りに思えるように。
いつか笑い話でこのこと話できる日がきますように。

「がんばれTくん」

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2003年12月06日

店舗改装

今日宝石工房KADAはリフレッシュオープンです。
スタッフが遅くまでお店に残り、準備しました。このサイトのイメージに合わせたプチリニュ-アルです。
職人魂がお店からも伝わるようにみんなでいろいろ考えて、自分たちなりにお店の雰囲気変えました。なんせ限られた予算の中の改装ですから、出来ることはすべてスタッフ自身でやりました。みんなで一生懸命掃除しました。
机などはそのままですが、レイアウトを変更し後はお客様を待つばかりです。

うちのお店はどちらかと言うとたくさん商品が売れるお店、商品がいっぱいあるお店ではありません。
お客様とお話が出来る場所、お茶を飲んでくつろげる場所、お客様が愚痴を言える場所、私は愚痴のるつぼと言っていますが、ともすれば私の愚痴をお客様に聞いてもらっています。(これではイカン)当店の渡部にいたっては人生相談会、恋愛相談会がちょこちょこ開催されています。

よくお客様に「ほんとあんたは商売っ気がないねー」と言われます。
そう商売へたです。「もうちょっと儲ければいいのに!」とメーカーさんにもよく言われます。でも私はお金のために働いてるんじゃないのです。
この言葉をお客様にお話すると「あんたはお金に苦労したことがないねー。坊ちゃんで育ったんだねー。」とも言われます。
私にももちろん家庭もありますし、最低限の暮らしはしなければいけませんが、そんなに大儲けをしようとか、大金持ちになろうとか思いません。いやそう思ったとしても、なれそうにもありません。
こんな不況の時期になにを言っているんだと言われそうですが、「お金」のためじゃなく「人」のために仕事したいです。

お店は出逢いの場所です。もちろんネットもですが、特にお店は毎日お客様と実際の顔を付き合わせてお話する所で、なんていうか、お茶の世界の一期一会ですよね。
とっても大切な時間だと思います。そのためにもお店はなるべく、くつろぐ場所でありたいと思います。今日お店を掃除しててスタッフ皆でこのことを再確認しました。
「ほんと今までありがとう。今日からまたお願いします。」オープン準備を終えた帰り際に、思わずお店にむかって深々とお辞儀していました。

いつまでもお客様との楽しいお話の場、くつろぎの場所であり続けようと思います。
ほんとうちのお店、喫茶店みたいですよ。ぜひ一度覗きにいらっしゃいませ。

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2003年12月04日

忘己利他  ボスに捧ぐ

この言葉は初めてカンドウコーポレーションの社長・福原さんにお会いして、最初に送ったメールの中で使った言葉です。
私はこの言葉こそが宝石工房KADAのすべての出発点だと思っています。
ここからこのサイトも誕生します。
そして、なによりこの言葉によってほんとの意味で福原さんと出逢います。

以下はその全文です。


福原様

あきんど加田の夫です。

今日は久々のオフ。徒然読みました。
福原さんのブランド、私流に思い浮かんだのは、「忘己利他」です。
これは私の母が10年前にご縁があって比叡山にのぼり、当時の天台座主山田恵諦さんから教えられた言葉です。

当時当店は相当ひどい状況(妻に言わせれば今もあまりかわりない。)粉飾決算ありの手形乱発の債務超過の倒産寸前の会社でした。
また社長と私との考え方の違いで経営方針も立てられず八方塞がりの状態の時この言葉に出会いました。
このとき比叡山から持ち帰った山田恵諦さんのお話のビデオテープとこの言葉に私は涙し、助けられました。

「己を忘れて他を利する」どんなにつらい時でもまず相手のことを思ってあげられることができれば、何とかなるもの。
仮に何ともならなくても悔いが残らないハズ。

ふしぎなもので、このご縁があってからいろいろな素敵な出会いがたくさんあり、
また企画した宝石展示会で売上げをあげることができなんとかこの年を切り抜けることができました。
笑顔と相手をおもいやる前向きな気持ちがあれば生きていけるんだなーと思い知らされた年でした。

それから10年この前ぶれからくるとすばらしい経営者の出来上がりのはずなのですが、のど元過ぎればなんとやら・・・・。

少し忘れかけてたこと思い出しました。
福原さんの仕事、これもう絶対「忘己利他」ですよ。
私に理解できるように、この言葉の本当の意味をリアルわからせてくれましたよ。
私は宗教には興味ないのですが、これが最澄の言う「慈悲の極み」だそうです。
せいいっぱい相手の仕事考える。身を削ってますぜボス。

またまた10年目の出会いです。そして今回は私の起業となりそうです。40にして立つ。
自分の仕事の意義考え直すいいチャンスとなりました。
すべてを見直し、ギア入れ直していきます。

相手の感動をいつも考えていればコワイモノなしですね。
時間かかると思いますが、絶対ものにしてみます。
今回10年前の決算書と「忘己利他」の言葉、私の中の初の殿堂入りです。
まだまだ借金大王ですが、いつか1度当店の決算書見ながら直に話できる日、夢見ながら頑張ります。

少しづつでも確実に。
後ろでサイトマップまだまだ考えてます。今日は徹夜かなー。
こんな奥さん見るのはじめてです。
明日はよろしくお願いします。


今日、2003年12月4日
ボス!「ありがとうございます。」


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2003年12月03日

クリスマスローズ

12月に入り、宝石工房KADAのある出雲のショッピングセンター、パラオの店内BGMもクリスマスソングが流れています。

この時期、私の大好きなクリスマスローズが花屋の店先に並びはじめ、クリスマスが近いことに気づきます。
冬から春に咲く花でキンポウゲ科ヘレボルス属の多年草、原産地はヨーロッパです。
日本ではクリスマスローズというと、ヘレボルス属すべてをそう呼んでいるのですが、本来は私の大好きな二ガー(ノイガー・ニゲル)のことを指しています。
ヨーロッパではちょうどクリスマスの頃に咲きはじめるのでこの名前が付いたようです。

うちの小さな庭にも5株のクリスマスローズがあります。残念ながら島根では2月から3月にかけて咲きます。花は真っ白でとても清楚、まるで雪の精のようです。
1年中で一番寒いしかも、雪の積もる頃に凛として咲く姿はもうほんと感動ものです。
日陰にも耐え、厳しい冬の寒さの中に、静かにさりげなく、うつむきかげんに咲くこの花に尊敬さえ感じます。
この花の咲き方に、自分自身の生き方に重ね合わせそしてお手本として、共感するところがあり大ファンとなりました。清楚で素朴でもすこしだけ華やか・・・なんにでも感情移入が激しい私です。

でもこの花に関して最近新たなことを知りました。
いままで花びらだと思っていた花弁は実は萼(がく)でほんとうの花はおしべの元のところに小さく集まって咲いていることを。
ほんとびっくりしました。今まで花びらと思っていたところが、実は萼で見せかけの花だったのです。うちの庭に咲いていても1カ月は咲いていたことも納得しました。
そしてこの花がまたまた好きになりました。
以前は厳しい環境でうつむきかげんに咲く花に自分を写していたのですが、
今はほんとのすぐ散ってしまう小さな花びらを取り囲むように美しい萼に守られている花だと知りよりいっそう大好きになりました。

これは今の宝石工房KADAなのです。
そう今の自分たちはその小さな花びらで、周りの人たちのおかげで花として認められ、その存在があることを強く感じます。
そしてそのことに感謝したいと思います。

来年うちの庭で咲くクリスマスローズとっても楽しみです。


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2003年12月01日

やさしさに包まれて  渡部正との出逢い

当店の宝石職人、渡部正と私との出逢いも36年前になります。
そう、小学校1年生の3月、私は右目の手術を終えて3ヶ月ぶりに病院から自宅に帰ってきたところです。
そこに松葉杖をついた19歳の渡部正が立っています。
母が紹介します。「今年から住み込みで職人さんとして、お店で働くことになった渡部さん。挨拶しなさい。」と、
渡部が「これからよろしくお願いします。」と笑顔で握手を求めます。
私は躊躇し、うつむきながら握手します。
右目を失明し、大きな眼帯かけて帰ったばかりの私はもうどこかに消え入りたい気分で、渡部の顔さえまともに見ることができません。
ただ、やけに握手の力、強かったことだけは今でも覚えています。
渡部自身が幼い頃、小児麻痺が原因で両足がまったく動かないと知ったのはその後です。

それから私はなるべく人と会うこと避けて生活し始めます。2年生には進級できたのですが、学校へ行くのもままならなくなります。今の不登校のさきがけです。結局、担任の松田静子先生と両親のおかげでまた学校へ行けるようになるのですが、この話はまた後日詳しく。

当時のお店は自宅と兼用で時計店としての仕事が主でした。時計職人として渡部は住み込みで家族同様に暮らしていました。
私は人と会うのがいやで家にこもってプラモデル作りの毎日です。
そのプラモデルが縁で渡部と話すようになります。
「ナベちゃ~んここどげしてつくーだ。」(出雲弁で、ここはどうして作ったらいいんだろう?の意味)職人は手が器用です。プラモデル作りなど朝飯前。
もう私は渡部に尊敬のまなざしです。
お風呂とかも一緒に入り、当時こころを許した唯一の人となりました。
そしてお風呂に入りながら「人が好きじゃないといけんよー、わしここまでこれたのは人のおかげだけん。」と教えてくれました。
誰の言うことも聞けなかった私ですが、渡部の言うことだけは素直に聞けました。
でも小学2年生の私にはまだ「人」の意味はわかりません。

これが渡部と私の出逢いです。
こんな半人前の55歳と42歳の二人が今、夢にむかって仕事しています。
そして今でもしつこく渡部は言います。「やっぱ、人が一番、人のために仕事しようや。」
「わしセンムのたのみ断ったこと無いがね。」
「一緒にがんばらや。」
今でも私は渡部のやさしさに包まれて、
そして少しだけ「人」のことわかり、がんばれています。

投稿者 kada : 11:39 | トラックバック